
こだわりの製法と想いを受け継ぐ 次の世代へ残していきたい塩づくり
佐伯市米水津にある、青く澄み渡る海と豊かな緑に囲まれた間越(はざこ)地区で、自然に寄り添った昔ながらの製法で作られている「なずなの塩」。
製塩所の前に広がる美しい間越の海水から純国産手造り海塩を製造・販売し、全国の食や健康に関心の高い人たちから20年以上に渡って支持されています。
前編では、なずなの塩の創業者である那波会長のお話をお伺いしましたが、今回は後編として那波会長の後を引き継ぎ、現在塩づくりをされている株式会社なずなの塩 工場長 永井 由正さんのお話をお届けいたします。(前編をご覧になる方はこちら)
■きっかけは地元の海のため、間越の地で深めた交流
以前は地元の漁協で働かれていた永井さんですが、那波会長の事はなずなの塩創業当時から少なからず関わりがあり知っていたそうです。
「その当時、ブリの養殖が低迷していた時期でどのようにしたら地元のブリをブランド化し、差別化を図れるかという事を漁協職員としてずっと考えていた。そんな時、土着微生物菌を利用して魚も海も綺麗にしようというアイデアがあり、湯布院にあるヤマメ養殖場に視察に行く事となった。
微生物菌を与えたヤマメは内臓が小さく、卵の孵化率も高く非常に驚いたが、よくよく考えれば山の栄養と共に流れ出た微生物が食物連鎖で海の生物の栄養となる。そのため魚にも菌というのが大事であると気付いた」との事で、それから永井さんは養殖ブリに与えるぼかし(ぼかし肥料)を作り始めます。
一方、那波会長は間越にある竜神池(砂浜の裏にある砂丘でせき止められた潟湖)の水質を向上させたいと考え、土着微生物菌の力を借りてはどうかと思いつき、ぼかしの作り方を習いに永井さんを訪ねます。
その後、永井さんと那波会長はぼかしになずなの塩のニガリを利用するなど、研究を重ねながら互いにアイデアを出し合い、取り組みを進める事で交流を深めていったそうです。
永井さんの人柄と仕事ぶりに絶大な信頼をおいた那波会長は、自身の後継者としてなずなの塩に来て欲しいと伝えますが、その時はまだ漁協に務めていた事もあり「定年したら前向きに検討しましょう」という風に、冗談半分で応えていました。
那波会長との出会いから現在に至るまでのお話を伺うと、ふたりの強い絆が伝わってくる。
■那波会長の熱烈オファー、想いを受けてなずなの塩へ。
それから数年が経ち、永井さんは転職し地元の養殖事業者で働き始めます。時期を同じくして、なずなの塩は那波会長が引退を検討していたにも関わらず、急な後継者不在の問題に直面していました。
困り果てた那波会長は再度、永井さんへオファーを出します。転職したばかりである事は承知の上で、それでもどうしても力を貸して欲しいと、口説きに赴いたのでした。しかし、入社して3ヶ月と短く、知人の協力もあっての就職だったため、永井さんはすぐに那波会長の申し出を受けることはできませんでした。
それまで何年も米水津の地域で塩づくりを行ってくれる人を探していた那波会長は、諦めきれない思いはありましたが、永井さんの立場も理解できるため一旦は引き下がります。するとその後、永井さんの考えが少しずつ変化して行ったのだそうです。
「那波会長の熱意は十分に理解していたし、力になりたい想いもあった。だから転職したばかりなので今すぐには無理だが、1年後であれば塩づくりを行っても良いと伝えた」
その言葉を聞いた那波会長は「翌年まで塩づくりが停滞してしまうけれど、他の人ではなく永井さんに引き継いでもらいたい」と待つ覚悟を決めます。実際にその期間は塩の在庫が無い開店休業状態となり、その様子を見た人から「廃業しているんじゃ無いか」と噂された程でしたが、それから1年後、永井さんは約束通りなずなの塩に正式に参加し無事に塩づくりが再開されました。
■人に届けるための塩を作る、受け継ぐこだわりの製法と想い
永井さんは見込み通りの人材ですぐに塩づくりの技術を身につけ、何よりなずなの塩を創業するに至った経緯や、那波会長の想いをきちんと理解してくれていたそうです。
塩づくりに励む永井さんでしたが当初は「ただ、かん水を炊けばいいのだろう」とそれほど深く考えずにいたと言います。しかし、日々取り組むうちに「自分が作っているのは、人に届けるための塩だ」という事に、改めて気が付きます。
塩づくりの工程では、かん水を作る過程や釜炊きなど作業を屋外で行う場面が多くありますが、永井さんはそれ以降、チリなどが出来るだけ入らないようより一層の配慮をしながら、ゴミを除去する網を自作するなど工夫した結果、後工程で行う不純物の除去作業量が大きく改善しました。
これまでの製法を変えずに行っている永井さんの塩づくりですが、釜炊きの場合は作り手によって釜から上げるタイミングが変わってくるため、どうしても出来上がりの塩の味に微少な違いが出てくると言います。
通常はにがりの味を確認しながらタイミングを図るそうですが、永井さんの場合はにがりで喉を痛めてしまう体質のため味での確認が出来ません。その為、炊くかん水を毎回一定量にし、残すにがりの量を目測で確認しながら釜から上げるタイミングを見定めるようにしました。
様々な工夫を重ね、より良い塩を作るため努力している様子が、細部から伝わって来ました。
「あらしお」は鉄釜で薪を焚き、かん水を煮詰めていく。煮詰めすぎると塩以外の成分が結晶化し味が落ちるため、釜から上げるタイミングが重要。
「てんぴしお」は天日小屋の木桶にかん水を入れて毎日かき混ぜる。太陽光で水分を蒸発させ自然結晶化させる。
出来上がった塩。検品や袋詰めも、すべて手作業で行う。
■自然と共に歩む塩づくり、作り続けるための新たな一歩
塩づくりは自然相手の作業が続くため、予期せぬ事態に見舞われることもしばしばあると言います。雨が降ればかん水作りは出来ず、台風で設備が壊れてしまい修繕のため作業が一定期間ストップする事もあります。
日々自然と向き合い共に歩まざるを得ない状況で、効率や生産性を求めない方針は那波会長の目指した塩づくりですが、一方で永井さんには別の思いもあるそうです。過去に経理職を経験していたこともあり、組織として安定した運営をして行くため、いかに販売数を確保していくかについても考えると言います。
そうした時に、現状に足りていないのは販路や広報PRの部分であると感じ、当サイトで新たに通信販売を開始しました。しかし、ただ販売する事だけが目的ではなく、なずなの塩の塩づくりへの想いやこだわり、創業までのストーリーをご購入いただくお客様にしっかりとお伝えしたいという思いから、今回のインタビューも受けてくださったとの事です。
「良い塩を作っている自信はある。せっかく作ったものだから、もっと多くの方になずなの塩の『想い』や『こだわりの製法』を知ってもらい、食べて美味しいと言ってもらえるなら、これほどに嬉しいことはない」
永井さんは笑顔でそう話してくれました。
海水を濃縮してかん水(濃い塩水)を作るタワー。雨が降ると作業ができない。
三角の形をした天日小屋。強い台風が来ると、ビニール屋根にダメージを受ける事もある。
■これからも地域と共に、残していきたい大切なもの
那波会長から永井さんへと受け継がれた塩づくりは、これからも変わらぬ製法と「本物の塩を作る」という揺るぎない想いと共に、間越の地で続いて行きます。
「あと15年くらいは頑張れるけど、その後はまた地元の若い世代に引き継いでもらえたら良いなと思っている」と永井さんは語ります。
創業当時、間越のためになるならと塩づくりを受け入れてくれた地域の人たちへの感謝の想いを胸に、豊かな原生林を守り、海の恵みを受けながら、必要としている方に本物の塩を届けるために、残していきたい大切なものがここにはあります。
皆さんも一度、間越へ遊びに来てみませんか。そして心を込めて作られているなずなの塩を、ぜひご賞味ください。ただ塩辛いだけではない、まろやかで奥深い味の塩が、あなたの食卓をさらに実りあるものにしてくれるはずです。
- 2021年02月03日